大量輸送について

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20080509/p1
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080604/p1
↑について、やねごんさんの言うとおり、と書いたのですが、鉄道のはなし、あれからちょっとだけ考えました。オチはないけど書いてみます。
まず、wikipediaで調べてみると
ロングシート(長いす型)
クロスシート(進行方向と平行なシート)
というわけで、ロングシートは、かならずしも「客をなるべくぎょうさんつめこむための仕様」というだけでもないようです。
ロングシートは基本的に近距離用の車両、ということで、たんに詰め込みやすい、というだけではなく、乗り降りがしやすい、という利点もあるようです。そうすると、近距離で、乗客がひんぱんに乗り降りする路線では、ロングシートの方が快適なわけです(すいてたら足が伸ばせるという利点もあるとか)*1
また、クロスシートは必ずしも特別料金用の車両というわけでもないと思います。長距離の路線では、庶民用の車両でも、クロスシートボックスシート)だったのではないでしょうか。『銀河鉄道の夜』とか、昔の「夜汽車」のテレビドラマ映像を思い浮かべると、たいていボックスシートのイメージです。むしろ、特権階級の長距離用車両は、寝台車だったのかもしれない。
そうすると、(やねごんさんの主張と結局同じなのですが)悪いのはロングシートそのものではなく、「長距離なのにロングシート」というところにあるわけです。
つまり、近距離用=通勤用の車両であるものに、「快速急行」「急行」などがあり、長距離を走らせているところがおかしい。さらに言えば、そもそも問題は、大都市近郊の労働者が長距離通勤を強いられている状況にある。
で、本当の特権階級は、ロマンスカーにも乗らないし、そもそも電車になんて乗らないし、自家用車とか、タクシー(「居酒屋タクシー」ふくむ)とか、自家用ヘリとか、に乗っているのかもしれない。あるいはそもそも、ヒルズのマンションに住んでいて長距離通勤する必要がないとか。
ところで、20年ぐらい前、タモリのデビュー当時、「夕刊タモリ」という番組がありました。当時中学生か高校生の私はよく見ていました。いまだに覚えているシーンがあります。
視聴者からのハガキを紹介するコーナーで、タモリがこのような手紙を読んだのです。
「私は毎日ひどい通勤ラッシュで会社に通っています。毎日が戦いのような日々です、うんぬん」
そのとき、ゲストが所ジョージで、タモリ所ジョージにどう思うか聞きました。すると所ジョージは「なんで乗客同士が戦うのかね。そんな列車で通勤させる会社と戦えばいいじゃん」と言ってました。

さて、そもそも、お金もちは、むかしから「快適」な移動手段を独占してきたように思えます。庶民が徒歩で移動するしかなかった時代でも、貴族や何やらは、馬だの馬車だの人力車などで、「快適」に移動していた、と。
で、その「快適」さとは何か、というのを現代のわれわれが考えるとき、「個室」である、ということが重要なポイントとして想起されているのではないでしょうか。
馬車などでは、車「内」はひとつの「個室」となっており、車「外」から隔てられたプライベートな空間となっている。この「プライベート」な空間の有無、は、特権階級と庶民とをへだてるポイントの一つとなっている*2
たとえば、住居でもそうです。大部屋的なものはランクが低く、個室はランクが高いものと考えられています。昔の日本の庶民はいうまでもなく、「第三世界」では今でも個室などなく、大家族が一部屋でざこねしている家など、めずらしくない。またそもそも、「家がない」人だってたくさんいるのです。この日本でも。そういう人たちは「不幸」だ、と考えられている。
一方、お金持ちは、昔から個室で「優雅に」暮らしている(し、いた)と。
お金持ちが昔から個室で暮らしていた、というのはたしかに事実です。
私はかつて、戦時中の慶応大学の学生寮跡を見学したことがあるのですが、それが、今のワンルームマンションとまったく同じ(いやそれ以上の)「モダン」な個室の部屋だったことにおどろきました。
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20051217/p1
ところで、今回初めて、ロマンスカーがもともと固有名詞ではなかったということを知りました。
ロマンスカーは、ロマンスシートを持った列車という意味で、小田急だけではなく、他の鉄道会社の列車でも、ロマンスシートを持っていれば定義上は「ロマンスカー」だ、ということです。

なお、回転式、転換式にかかわらず、鉄道用語としては進行方向に向けることのできる2人掛け座席をロマンスシートと呼ぶ。このような構造の座席設備を持つ車両をロマンスカーと呼び、特に小田急電鉄小田急ロマンスカーは列車名としても広く親しまれている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E8%BB%8A%E4%B8%A1%E3%81%AE%E5%BA%A7%E5%B8%AD#.E3.82.AF.E3.83.AD.E3.82.B9.E3.82.B7.E3.83.BC.E3.83.88.EF.BC.88.E6.A8.AA.E5.BA.A7.E5.B8.AD.EF.BC.89

このように、ロマンスシートとは何かというと、1920年代にはやりはじめた、二人がけの孤立した座席のことで、映画館の席などもそうよばれていたそうです。つまり、「男女」が、「ロマンスをはぐくむ」ことができるような席、それがロマンスシート、というわけですが、やぱりポイントは、「孤立性」にあるようです。wikipediaにはこうあります。

それ以前は、進行方向に向けて着席できる座席は4人1組の向かい合わせ固定式(いわゆるボックスシート)のみであり、2人単位のスペースを確保できる座席fの出現は画期的であった。向かい合った未知の乗客との対峙を否応なく強いられる4人がけ座席と違い、例えば男女の2人連れが心理的なプライバシーをある程度保ちつつ、2人だけで語らいながら旅をする、ということも可能になったわけである。(強調引用者)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC

さて、話をもとにもどすと、「ブルジョワばかり個室をもって快適にくらしやがって、庶民にも個室をよこせ!」という主張も当然あるでしょう。
事実、高度成長期以後、「マイ」ホームや「マイ」カーなど、特権階級が独占していたプライベートな空間を、庶民が手に入れるようになっていった、と。

しかし、「個室」は本当に快適なのでしょうか?あるいは、個室のある生活とは、本当に幸せなのでしょうか?
サルトルは、「プライベートな空間」が、分子化され、分断されたブルジョワジーの存在様態そのものを象徴するものだ、と考えます。
くわしくはここhttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/gohosei.htmlに書きましたが、ちょっと抜粋します。たとえば、隔離投票所という「個室」について

合法権力は、普通選挙の名において投票者をばらばらに分子化 atomiser する。その装置が、投票所の、隔離記入所という閉じた空間である。その中で、投票箱は選挙人を集団の一員としてではなく「市民 citoyens」として待ち受けている。

 隔離記入所は各人に告げている。「だれもお前を見てはいないよ。お前はお前自身のほかに何者にも依存していないのだ。お前は隔離されたところで決定しようとしている。そして後になれば、お前の決定を他人に隠すこともできるし、嘘だってつけるのだ」。[SX77/74]

あるいは、一戸建ての家について。

弁証法的理性批判』においては(……)人間の「内面」への孤立化は、人間の社会的なモノ化とパラレルにとらえられるようになる。例えば人間は、塀をめぐらせて財産(所有されたモノ)を他人のまなざしから隠す(ブルジョア的財産としての庭付きの家など)。それは、財産(モノ)に「人間的内面性」を付与することなのだが、同時にそのとき「モノの外面性が彼自身の人間的内面性となる」とサルトルは言う[*3]。

 彼は自分の人格をもって、人間存在に物質の不可侵入性を(つまり、はっきり区別された物体が同時に同一場所を占めることの不可能性を)あたえたからである。これはまさしく物象化の一つのありふれた事実である。[CRD262/I236]

ちなみにほねのずいまでブルジョワだったサルトルが、本人のいうところでは決定的に考え方を変えることになったきっかけは、捕虜収容所で生まれてはじめて(個室を持たない)大部屋生活をしたことだった、ということです。
話はズレますが、昔大学の移転反対運動にちょっとかかわっていたとき、移転後の学生寮が、つくば大学と同じような、全室個室型のものになる、という計画に対して、反対派のKさんは「これは学生を分断し、学生運動を組織させないためのものだ」と言っていました。そうだそうだ、といいながら、当時私は、実は「でもやっぱり個室が良いよなあ、大部屋はいやだよな。」と内心思っていたのですが、言えなかった……。ところで、今、その大学は「民営化」され、たしか学生寮自体廃止されてしまったと思います。
現在の私(たち)が、大部屋が不幸だ、と考えてしまうのは、それはブルジョワ的思考を内面化してしまっているから、かもしれません。

しかし、かといって、ラッシュのすし詰め車両が「快適」であったり「幸せ」であったりするわけではもちろんない。
ブルジョワは個室によって「分断化」され、モノ化されていますが、すし詰め車両の乗客も、すし詰めされることによってモノ化されています。
考えてみれば、人間が地上を「大量に」移動させられるようになったのは、鉄道の出現以後のことではないでしょうか。鉄道によって、モノが大量に運ばれ、またモノ化され「量」化されたヒトが大量に運ばれるようになったことと、資本主義の発展はきりはなせないでしょう。
資本主義発展の前段階では、鉄道ではなくて船による大量輸送が重要だったのではないでしょうか。この場合でも、モノ化されたヒトが、大量に長距離移動させられた事実をわすれてはなりません。アフリカ大陸からアメリカ大陸へと。

*1:混雑した路線バスが乗り降りが非常にしにくく、入り口あたりに人が固まってしまう、というのは、クロスシートだからというのも大きいと思います。そういう構造上の問題と別に、昔バスをよく使っていたとき、ものすごく混んでいるのに奥に詰めないで平気でいるやつらがあまりに多くて、殺意をいだいたこともしばしばでした。

*2:そういえば同志ウリヤノフはその昔「封印列車」でていちょうに運ばれました。