イラク人質問題

イラク人質問題について追加。あまり大したことは書けませんが、ちょっと。
 人質や家族へのバッシング、費用請求など、ひどいものでした。これがいかにむちゃくちゃか、というのは、理屈でははっきりしているわけで、あらためて言うまでもありません。その辺は朝日新聞高橋源一郎が書いていたとおりです(19日夕刊「どこかの国の人質問題」)。が、言うまでもなく、こうしたバッシングは理屈の問題ではないのですよね。何かというとサルトルを引き合いに出してしまうのは、単に私のネタの貧困さを明らかにしているだけなので、恥ずかしいのですが、どうしても私はサルトルの『ユダヤ人』(*1)を思い出してしまいます。

反ユダヤ主義は]思想とは全然別物である。むしろ、情熱である。たしかに、それは論理的な形をとってあらわれることも出来る。「穏健」な反ユダヤ主義者とは、落ち着き払った調子で、こんなことを言える物腰の柔らかい男でもあろう。
 「わたしは、なにも、ユダヤ人を毛嫌いしているわけではありません。ただ、かくかくの理由により、国家活動における彼等の領域が、制限されていた方がいいと思うだけなのです。」しかし、彼はそのすぐあとで、こちらが信用出来そうだと思えば、更に打ちとけた調子でつけ加えるだろう。
 「おわかりでしょう、ユダヤ人には、『何かが』ありますよ。だから、わたしには生理的に堪えられないのです。」
 こうした理屈を聞くのは一度や二度ではないのだから、よく検討して見る必要があるだろう。先ず、これは感情的な論理から出発している。なぜかといえば、まさか、「トマトの中には、きっと『何かが』あるんですよ。だから、わたしは、あれを食べるのが大嫌いだ」などと、真面目に言う人があるとは、とても考えられないではないか。(サルトル著、安堂信也訳『ユダヤ人』岩波新書青版B79、1956年、p.5.)

 「おわかりでしょう、ああいう人たちには、『何か』がありますよ。だから、わたしには生理的に堪えられないのです。」この文の「ああいう人」には、人質家族、街頭でビラ配りするような人たち、デモに行くような人たち、市民運動なんかするような人たち……などを代入してみれば、よろしいかと思います。特に、最初の3人の人質家族の「態度」に、生理的不快感を刺激された人がずいぶんいたようです。不思議です。生理的不快感というなら、私はコイズミの顔の方が本当に気持ち悪くて見るに耐えないのだけど。テレビに映ったら即チャンネルを変える*1。昨日も新聞に載っていたコイズミの顔写真を見て逆上し、発作的に指パッチンで穴を開けました。
 それはともかく、人質、ないし人質家族への反感というのは、生理的、身体的なものらしいので、理屈で説得してもあまり意味はない。絶叫する家族、絶叫するデモ隊のシュプレヒコール、などに対して「ちょっとあれは引くよね」と言われたりする。この言葉はもともと「身を引く」というちょっとした身体的動作を現していたのでしょう。が、この、かすかな反射的動作が無数に集積し一点に向けられたとき、人質とその家族に向かうあのような恐るべき暴力が生まれたのでしょう。「引く」という身体的反応が、人質、家族、支援者、などの「態度」や「顔つき」など、それ自体身体的なものに起因しているらしいことは示唆的です。このような一節を思い出しました。ちょっと長いですが引用します。

 作家の辺見庸は、地下鉄サリン事件の現場に居合わせて、吐き気を抑えながら、倒れた人たちを地上に担ぎ出した。辺見は、死者一二人の中には数えられなかったが、約五〇〇〇人の重軽傷者の一人だった。彼は小説『ゆで卵』の中で、このとき遭遇した二通りの制度的な身体を描き出している。
 第一の制度的な身体は「元気な通勤者」である。大方の通勤者たちは、床にへたりこんでいる人たちに目もくれず、あるいは見ても顔をしかめるだけで、通路に投げ出された足をひょいひょいと跨いで、急ぎ足で改札口を目指した。人が倒れて苦しんでいてもその足はとまらなかった。何が起ころうと、役所や会社に遅れないこと。「定刻出勤」ということに制度化された身体が、地下鉄構内の「最大多数派」だった。辺見は言う。「こちらのほうが、へたりこんでいる人々よりも不気味で奇妙に見えた」。
 第二の制度的な身体は、ボランティアである。その若い男は、会社のバッジのほかに小鳥のバッジをスーツの襟につけていた。時期によっては、それに赤い羽根や緑の羽根がつけ加わるはずだ。若い男は、辺見の肩をポンポンと叩いて、よく通る明るい声で、この人たちを助けましょうよ、と言う。「世の中、お互い様ですから」。バッジ男は、いかにも手慣れた身のこなしできびきびと動き、通りがかりの通勤者に「おたくさんも、そっちのおたくさんも、ねえ見てないで、手伝ってくださいな、みんなお互い様なんだから」と呼びかけて数人を難なく参加させ、「おたくさん、そっちの肩持ち上げて」とか、「頭、頭が先で足はあと」などと「指示」して、何人かを効率よく地上に運び出した。辺見は、このボランティアとして制度化された身体が、緊急の場面で救助活動に果たした役割ないし機能を認めている。それでも、嫌な感じが残ることは打ち消しようもない。なぜだろうか。それはおそらく制度化された身体が人に強いるものを発散しているからである。「やるか」の一言ですむのに、「世の中、お互い様ですから」と言った過剰な自己言及性。人が逃れようもなく従ってしまう澱みない命令の言葉。「おたく」という不快な三人称的呼びかけ。そして人を統率する強制的な音頭取り。制度化された身体は、他の身体をシステムに取り込もうとして、パフォーマティヴィティを型にはめようとする。「嫌な感じ」は、制度化された身体が他の身体に強いる権力作用と、その権力性を被う「お互い様」との二重拘束に由来する。(栗原彬「模範的な身体」『越境する知1身体:よみがえる』東京大学出版会、2000年、pp.7-8.)

 「制度化された身体は、知の身体を欠くことによって権力システムに服従し、服従することによって支持する」と言う栗原氏は、続いてこう書いている。

 制度化された身体の裂け目は、「奇妙な感じ」や「嫌な感じ」である。苦しんでいる者を跨いで行き過ぎようとして一瞬よぎる自分への「嫌な感じ」。そして身体が立ち止まる。制度化された身体に何かが起こり始める。(同書、p.9.)

 確かにそうでしょう。そこから出発するしかないのでしょう。
 しかし、この「嫌な感じ」という身体的反応は、制度化された身体の裂け目ともなりうると同時に、身体の制度化の糧でもある。人質バッシングをした人々(第一の制度的身体を持つ人々)は、残念ながら、自分の身体への「嫌な感じ」を決して持とうとはしない。「ボランティアの身体」という、「ああいう人たち」つまり他者の身体への「嫌な感じ」を増幅させ、そのことによって自己の身体を正当性しているわけです。そう考えると、救いはなく、暗澹たる気持ちになってきます。
 事態はけっこう複雑です。栗原氏が言うような第二の制度的身体、ボランティアの身体への「嫌な感じ」、私も感じなくはない。なんなら、それを「反戦運動する身体」「デモに行く身体」「WEB日記で体制批判を書く口先だけの私の身体」への違和感に広げてもいいです。さらには、たとえば「デモに参加する身体」の中にも、裂け目はある。同じデモに参加した人が、このように言っていました。「デモはいいんだけど、シュプレヒコールって嫌い。ああいうことしてるから一般の人がデモに参加しずらいんじゃないかな」。私は、これにも強い違和感を感じます。が、今そういうややこしいことを言うと、暴力的な単純化の回路の中に入って、自己責任論とやらの嵐にエネルギーを与えてしまうだけのような気がするので、やめておきます。
 さて、人質や家族へのバッシングが、理屈ではなく感情の問題、すなわち身体の問題だ、という話ですが、再びサルトルに戻りましょう。サルトルは、反ユダヤ主義が身体レベルの問題だということを示すために次のような例をあげます。

反ユダヤ主義は]たとえ、うわべは理性的論理によって表現されても、実は肉体的変化まで伴いかねないものなのである。ある人々は、今まで同衾していた女から、自分はユダヤ人だといわれると、急に、不能になってしまう。ある種の人々は、中国人や、黒人に対する嫌悪と同様、ユダヤ人に対する嫌悪がある。(サルトルユダヤ人』p.6.)

 だが、これにつづいて、サルトルはこう書いています。

 しかし、この反撥は、肉体から生まれるものではない。なぜなら、ユダヤ人の女を、その人種さえ知らなければ、平気で愛することが出来るのであるから。この反撥は、むしろ、精神から肉体へと進むのである。それは、魂の契約[アンガージュマン]なのである。ただ、それが非常に深く、非常に全体的であるため、生理的にまで拡がるのであり、ちょうどヒステリーと同様なことが起るわけである。(同)

 制度的な身体のあり方は、何も遺伝子によって決定されているわけではない。身体は「作られる」、いや、我々は身体を「作る」のです。サルトルはこう言います。

 反ユダヤ主義は、自己の自由な、そして総括的な選択の結果であり、単に、ユダヤ人に対してだけでなく、人類全体に対して、歴史と社会に対して、その人のとる一つの総合的な態度である。それは同時に情熱でも、世界観でもある。(同書 p.14.)

 サルトルの言う「選択」とは、意識的な、精神的なものだ、と思っている人が多いでしょうが、そうではありません。それは、「情熱」でもあるような、つまり身体化された「態度」であり「世界観」なのです。サルトルはこう言います。

「人は怒りに身を委ねる(On se met en cole`re)」のであることを思えば、われわれは、反ユダヤ主義者が、自ら選んで、感情的世界に生きることに決めたのだと考えざるを得ないのである。理性的生活より、むしろ感情的生活を選ぶということは、決して稀なことではない[……]反ユダヤ主義者は、憎悪を選んだのであるから、彼等が愛するのは、情熱の状態であると結論しなければならなくなる。

 これを読むと、「ほらみろ、サルトルはやはり主知主義だ」と言う人がいるでしょうが、それは逆なのです。サルトルは、精神を身体の上に置いたのではない。むしろ、サルトルが強調しているのは、「精神とは身体化されてしか存在しえない」ということなものなのです。*2
 そのへんの話をしはじめるときりがないのでこのへんでやめます(てもう十分長くなってますが)。さて、では、なぜ人はそのような情熱に身を委ねるのか、つまり、情熱的なものとして自らを作るのか。サルトルはこう説明します。

 だが、どうして一体、誤った論理の方を選ぶことが出来るのだろうか。それは、人間に、不浸透性に対する郷愁があるからである。[……]石のような不変性にひかれる人々がある。重厚で、踏み込む隙を与えず、変化を嫌う。変化などしたら、どうなることかわからないと考える。それは、自己に対する生まれつきの恐怖であり、真理に対する恐れである。しかも、そういう人々をふるえ上がらせるのは、真理の内容ではない。そんなものは、考えて見ようともしない。[……]彼等は、一気に、しかも、今すぐ、完全に存在したがる。意見も、あとから身につけたものでなく、生まれつきのものであることを望む。また、理論を恐れるから、理論や研究が、従属的な役割しか持たぬような生活様式、既に見つかっているものしか探さず、既に出来上がっている自分以外の何物にもなろうとしないような生活様式を選ぶ。そして、それこそ情熱に外ならない。[……]反ユダヤ主義者は憎悪を選んだが、それは憎悪が一つの信仰だからである。それは、言葉と理性をはじめから無価値にすることを選んだことにもなるのである。(同書 p.17)

 私たちは、「ああいう人」とは違う。「まっとうな」「ふつうの」「健全な」日本人、社会人、庶民だ、という、他者を遮断し、他者から身を「引く」身振り……によって、私たちは何を作ろうとしているのか……というと、それは他ならぬ「私たち」なるモノ、なわけです。「生まれつきの」「不変の」私、なんてものは存在しない。そのことへの不安、恐怖から逃れるために、人は「生まれつきの」「不変の」モノであるかのように自らを繕う(作ろう)。「人はアイデンティティを確立するために他者を差別する」というこの結論は、古典的な、というか手垢にまみれたありふれたものかもしれません。が、古くさい主張だから真理ではない、ということはない。スタンダード反社会学講座の「人間いいかげん史観」じゃないけど、人間なんて、時代が変わろうと、場所が変わろうと、そんなに変わらない。おっと、この言い方はまずい。ややこしいけど、こう言い直しておきます。「『人間は変わらない存在ではない』ということを認めたがらない存在である点において、人間は変わらない」。
 ええと、めちゃ長くなってしまいました(全然「ちょっと」じゃなくなっちゃった)が、最後もう少しサルトルを引用して終わりにしたいと思います。

 そうしてしまった今、彼はなんと安心なことだろう。ユダヤ人の権利についての議論などが、なんと無用にも、また、軽いものと思われることだろう。彼は、一気に、異なった次元に身を置きかえてしまったのだ。時に、ご愛嬌に、自分の立場を弁護することがあっても、別にそれに身をかけているわけではない。仮にそうして見ているだけである。議論の場に、自分の直感的確信を反映して見るだけである。今、わたしは、反ユダヤ主義者達の「言葉」をいくつか並べたが、それは、みんな馬鹿気ている。「わたしは、ユダヤ人が嫌いだ。なぜなら、召使いを無規律にするから」とか、「ユダヤ人の毛皮屋が、盗人同然だから」などなど。だが、反ユダヤ主義者達が、これらの返事の無意味なことに全く気づいていないと思ってはならない。彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ権利があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感を感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気を挫いたり、とまどいさせたりすることだからである。あまり、こちらが勢い良く攻めれば、彼等は、心を閉ざしてしまい、なにか見事な一語で、もはや議論の余地はないという。といっても、それは、彼等が、説き伏せられるのをこわがっているからではない。ただ、自分が、滑稽に見えるか、あるいは、自分の困惑が、味方に引きいれようとしている第三者に、まずい効果を与えることを恐れているにすぎないのである。(同書 pp.17-19.)

*1:実は最近またちょっと見始めている。

*2:その意味で、サルトルは、フーコーやバトラーなどと大して違うことを言っていない、と私は思うのです。「いや、『作られる』と『自らを作る』とでは全然違う」と言う人もいるのだろうけど……そうかなあ……。