世論論論

 ここのところ、「世論」(とかそれに類するもの)について云々している人々の意見について、考えさせられることが多い。全然まとまっていないけど、今回は、それを書いてみよう。つまり、世論についての意見、についての意見、世論論論です*1

 さしあたり、「世論」という言葉自体、大変うさんくさいものに聞こえる。市民の「声」国民の「声」なんかも同様。
 そういえば昔、60年安保のころ、時の首相岸信介が、「国会前にデモ隊が殺到しているなどと言うが、後楽園球場は毎晩人がいっぱいではないか。安保ハンタイは『声ある声』だ。私は『声なき声』を聞く」とかなんとか言った、というのは有名な話。
 なんだ、考えてみたらコイズミが言いそうなことじゃないか。為政者によるこうしたナメきったな開き直り、伝統だったか。しかし、岸は少なくとも退陣に追い込まれたが、コイズミは支持率がいっこうにさがらない。
 コクミンをバカにし、痛めつけるセイジ家に対して、なぜコクミンは声をあげないのか?なぜデモに行かずに球場に行くのだ?
 「それは、コクミンがダマされているからだ」とデモの主導者は言うかもしれない。「コクミンよ目を覚ませ」と。
 すると、横からこんなことを言う人が出てくる。「ここにあるのは傲慢な『啓蒙』の論理だ。自分で物を考えることのできないオロカなコクミンに代わって自分たちアマノイイ人間が声をあげる、と思っている思い上がったセイジ屋は、彼らが批判するセイジ家と本質的には変わらない。サルトル的知識人の時代は終わった、云々」
 ふむ。なるほど。「声ある声」をあげているのは、コクミンではなく、セイジ屋なんだ、と。「プロ市民」などという言い方もその辺をついているのだろう。
 しかし、一見セイジ家とセイジ屋の両方を批判しているように見えるこの人は、では、コクミンなのか? が、彼もまた結局は「コクミンよ、『啓蒙』にダマされるな」という新手の啓蒙活動をしているだけなのではないか? というわけで、彼も別種のセイジ屋であるとも言える。
 アタマノイイ人がオロカなタミを導く傲慢さへの批判とは、いわばパターナリズム批判である。パターナリズム批判には、自己決定の唱導が伴っていることも多い。つまり、声ある声の傲慢さへの批判は、声なき声の従順さへの批判にもつながる。
 声なきタミ、コクミンは、「自ら」声を上げねばならない。いや、コクミンはまず声をあげる「主体」とならねばならない。「まず主体を立ち上げろ」というわけである。だが、前から思っているが、自己決定の唱導も、やはりそれは唱「導」なのである。「こうするのがあなたのためよ」と決めつける人を批判する人が、「自分で決めるのがあなたのためよ」と決めつける。とするとこれもまた別種のパターナリズムであり、別種のセイジ屋である、とも言える。
 結局、ヨロンとはどこにあるのか。コクミンはどこにいるのか。タミとは「物言わぬ民」である。「物言わぬ民」が雄弁に語りはじめたら、それはもうタミではない。セイジ家か、セイジ屋か、どちらかの仲間入りである。結局、注視すると見えなくなり、聞こうとすると聞こえなくなるのが、コクミンであり、ヨロンなのではないか。
 とすると「語り得ないものについては、沈黙しなければならない」ということか。コクミンについては、沈黙しなければならない。
 常にセイジ家とセイジ屋に声を押しつけられ、翻弄される、沈黙するタミグサ。彼らは、セイジ家とセイジ屋に寄生され、食い物にされる哀れな宿主である。
 ……だが、寄生虫は宿主を利用している嫌らしい虫のように見えるけど、実は宿主の方が一枚上で、被害者のふりして寄生虫をしたたかに利用している、なんてこともよくある話だ。コクミンの沈黙こそが、一番したたかで手強いのかもしれない。
 考えてみれば、セイジ家もセイジ屋も、そもそもコクミンが生み出したものだ。いや、セイジ家もセイジ屋も、コクミンである。コクミンの「外」はない。
 だから、沈黙するのではなく、語らなければならないのではないか。我々の沈黙について内側から語らねばならないのではないか。
 (なんだか最後は、例のごとく思わせぶりなだけのありきたりな結論になりましたとさ)。

*1:必要に応じて改訂していくつもりです