「法ボケ」追記2

(日付上はさかのぼりますが上の「追記1」の続きと考えて下さい)
 さて、強制代執行直前の名古屋市側の対応は

その日緑政土木局に電話をして話し合いの件はどうなったかときくと、「別室で会議中。用件は伝える」とするものの連絡がなく、10分か15分後に電話をすると「二人とも退庁した」とのこと。

 というふざけたもので、これは法的云々以前に、普通の道徳感覚からいっても、どうかと思います。このような対応をされたら、誰だって腹を立てるのではないでしょうか(そのような「お役所」批判は実際にあふれています)。つまり、今回の市の強制代執行は、法のレベルでも不法な暴挙だし、また、「フツーの」道徳感覚から言っても、許容できないものだと思います。
 ところが、この野宿者問題に関しては、むしろ逆に、野宿者の側がしばしば「道徳的に」批判されている。その問題に関しても考えてみたいと思います。
 まず、サンスポ的な主張をものすごく単純化すると、こうなります。

(A) ホームレスは「不法」な者である。ゆえに、公園から出て行くべきだ

 が、こう主張している人は、何も「本当はホームレスは悪くはないのだが、『あれは不法だ』って言えば、大手を振って、ホームレスいじめという悪事ができるぞ」などとほくそ笑んでいるわけではない。いやすくなくともあからさまにそんなことを言う人はまずいないでしょう。彼らが言っているのは正確には

(A') ホームレスは「不法」でありかつ当然「悪い」*1。ゆえに、公園から出ていくべきだ

 です。つまり、彼らは、ホームレスを「法」に照らして非難しているだけではなく、もちろん、法以前の道徳感覚のようなものに照らしても非難している。例えばこんな感じです。

(A'')
(1)ホームレスは働かない怠け者である。
(2)働かず怠けるのは悪いことである。
ゆえに
(3)ホームレスは悪い人である。

 しかし、これはそもそも前提からして「間違って」いる。「(2)働かず怠けるのは悪いことである」という道徳感覚を認めたっていい。しかし、そうした話以前に、そもそも「(1)ホームレスは怠け者である」という最初の前提は、端的にいって事実誤認なわけですよね。つまり、
ていうかホームレスは怠け者じゃないし
なわけです。念のため、引用しておきます。

 野宿者たちに対する世間的なイメージとして、いまだに「怠け者」「好きでやっている」「自由で気まま」などという見方がまかり通っていますが、それは彼らの実情を知らない偏見に基づくものです。

 野宿者たちの多くは決して好きで野宿生活をしているのではなく、日雇い労働からのアブレや会社からのリストラなどの失業によって、野宿生活を余儀なくされたのです。また彼らの多くは、極めて低収入・不安定ながらも仕事をしています。野宿生活に伴う様々な障害の中で、彼らは必死に生きる糧を探し求めて、日々を何とか生き抜いているのです。生活保護を始めとする社会保障制度も、現状では野宿者への適用は極めて不十分であり、彼らを野宿生活に縛りつける一因となっています。

 また、野宿生活は決して気楽なものではなく、現実には極めて過酷なものです。野宿生活は当然ながら健康の悪化をもたらし、病死者や餓死者が後を絶たず、冬季には何人もの凍死者も出ています。これに加えて絶え間ない差別襲撃や、居場所からの日常的な追い出しなどもあり、彼らの精神的安楽を脅かす要素は枚挙にいとまがありません。仕事に恵まれず退屈している野宿者が多いことは事実です。しかしそれは、彼らの生活が気楽だということとは別なのです。

 ところが、ホームレスの問題を「議論」しようとすると、そもそもこうした出発点からしてかみ合わないことが多くて、びっくりすることがほとんどです。というわけで、そうした前提が共有されていないところで、前回の「法ボケ」のような文章を書いたとしても、それは「悪い人を擁護する反社会的主張」「フツーの道徳感覚に反するプロ市民の屁理屈」と見なされてしまう。
 というわけで、ホームレスの公園からの排除は、いってみれば

怠け者でもないのに怠け者と言われて迫害される

 ということでもあり、その意味では、法うんぬん以前に、「市民」の「フツーの」道徳感覚からしさえも、不当なことなわけです。つまり「フツーの」感覚からして「これってひどいじゃん」となると思うのです。
 ところが、ホームレスを道徳的に非難する偏見があまりに強いので、ホームレスを擁護すること自体が、フツーの道徳から遊離した立場と思われてしまう。
 たとえば、私が「法ボケ」で書いたことをむちゃくちゃ単純化すると、

国家は、「法」を盾にして弱者を迫害する

 となります。ここには、確かに法を疑う立場があります。ところが、このように主張することそのものが、次のような主張を誘ってしまうのです。

プロ市民は、「正義」を盾にして不法な者を擁護する

 つまり彼らはむしろ「正義」の方を疑っている。なぜならば、それは、フツーの道徳感覚と遊離した「プロ市民」の「正義」だからです。市民と対立した反社会的な輩が、「正義」とかいう名目を振りかざして屁理屈を言っている鬱陶しいやつらだ、というわけです。
 こうなると水掛け論です。そのような反応を誘ってしまうかもしれない限りで、私の文章は問題があったかもしれません。しかし、それは私の本意ではありません。


 もちろん、「市民」の道徳感覚のようなものそのものを思想的に批判していくということもありうる(例えば私は、個人的には「怠けるのは悪いことである」という道徳感覚を大いに批判したい(笑))けれど、少なくともこの場合、問題はそれ以前のところにある。
 それは、既成の法秩序そのものを批判する立場もありうるが、「運動」が主張するのはさしあたりは法の貫徹であって、法の立場に立った上で、国家の不法行為(法にすら従わない国家)を告発する、というものがほとんだ、という、前回書いた話ともつながる話です。
 それから、これも蛇足だと思いますが、もちろん私はホームレスの人々がみな道徳者であり善人である、とか言いたいわけではありません。しかしそれは、非ホームレスの人々がみな善人であるわけではないのと基本的には同じことだと思うのですが。また、逆に言うと、行政側が「悪いことしかしない」というわけでももちろんないでしょう。そもそも野宿者や支援者だってそんなことは言っていないでしょうし、むしろ積極的に行政側と「話しあい」をしようとしてきたわけです。ところが、まるで、ホームレスや支援者が常に全面的に対決姿勢であり、聴く耳をもたないかのようなイメージが、先入観や、マスコミの報道によって作られているわけです。繰り返しになりますが、今回「話し合い」を反故にしてきたのは市の方なわけです。

 まあ、この問題は、さらに「何故『市民』は、単純な事実誤認に目をふさいでまで、ホームレスを道徳的に批判しようとするのか?」などの、もう少し根本的な話にもつながるわけですが*2、さしあたり、前回の「法ボケ」の話に欠けていた一番最初の前提の話を、取り急ぎ補ってみました(これ自体うまくいっているかどうかも心許ないのですが)。



※上で引用した文章は

のページからですが、こちらは、活動日誌をはてなでやっています。

 いずれも、id:nopiko さん経由の情報です。

*1:このつながりをあまりにも当然のこととして疑わない空気を「法ボケ」と言ってみたのですが、あまり上手い言葉ではなかったかもしれません。

*2:つまり、市民の道徳そのものが、ホームレス迫害に向かってしまう本質を持っているのかもしれない。こうなると、道徳そのものの批判ということになってきます。