がまんする人/しない人/させられている人

昨日の日記のブックマークコメント

# 2008年09月02日 sirobu sirobu 社会 家じゃなくても実際にそんな図書館を利用するかって言うと… 電車にヤツラが乗ってきたら臭いに耐えかねて車両が丸々空いたりするんですぜ?(強調引用者)

これはつまり、「実際どれほど耐えがたい臭いがしているのかおまえは知っているのか?」ということなのでしょうか?
で、思い出したのですが。
モンスターなんとかというのはいろいろありますが、モンスター・フィロソファーと言えば、日本の場合、なんといっても、中島義道先生です。で、その日本が誇るモンスター・フィロソファーの中島先生は、『うるさい日本の私』他で、だいたいこんなことをおっしゃっています(いまてもとに本がないので、だいぶ昔に読んだうろおぼえの記憶にしたがって書いています。中島さんの議論の正確な紹介ではないのであしからず。)
中島さんは、現代の日本の街中にあふれている、人工的な音が、文字通り耐えられないのだそうです。たしか、音量の問題ではなく、質的な問題で、電子音とか、スピーカーから流れる音声とかが、耐えられないのだそうです。しかし、現代の日本では、そうした音があふれています。だからといって家の中にとじこもっているわけにもいかず町にいくと、そのような音が聞こえてくる。中島さんは、そのたびに、その音を出している場所の担当者に直接話をしにいきます。
「あの音が私は耐えられないので困っています。あの音を止めてくれませんか?」
すると、担当者との間の会話は、だいたいつぎのようになるようです。
「??どうしてですか?」
「いや、だから今言ったように、あの音が私は耐えられないので困っているのです。だから、あの音を止めてくれませんか?」
「?がまんできないような音ではないと思うんですけど……」
「いや、あなたはがまんできるんでしょう?でもそれは今は関係ないのです。私はがまんができないんです。」
「?でも、今までみなさんから、とくに苦情がきたことはないんですが……」
「いやだから、みなさんのことは関係ないんです。私ががまんできないといっているのです。」
「……そうおっしゃられても……」
藤子F不二雄の『ミノタウロスの皿』にある「言葉は通じるのに話は通じない」という名セリフそのものの押し問答が、かならずくりひろげられるそうです。
担当者は、中島さんが意味不明なクレームをつきつけているようにしか思えないのでしょう。しかし、「現にがまんができないのです」と主張している中島さんに対する、「がまんできないような音ではないでしょう?」という返答こそ、中島さんにとってはまさに意味不明な返答です。中島さんには、「「私はあなたではない」という当たり前のことがなぜ理解されないのか」という絶望感が積み重なるばかりです。
おそらく自分が「普通の人」であると思っている担当者は、中島さんのことを、「こんなどうってことのない音もがまんできない、がまんの足りないおかしな人」という目で見ているでしょう。しかし、中島さんにとっては、それほど侮辱的なことはないでしょう。というのも、現在の日本では、中島さんには耐えられない音が氾濫しており、それでもそこで生活しなくてはいけない中島さんは、まさに、毎日がガマンなわけです。たとえば、そういう音がない場所を選んで通るとかもしているでしょうが、それもできないので、たしか、街中にでるときは、ヘッドホンステレオで、大音量でクラシックの曲を流して、街の人工音をかきけす、という自衛手段をとっているそうです*1
おそらく、多くの人にとっては、中島さんのこの行為は、「滑稽」なものにうつるでしょう。多くの人にとっては、この行為は、「必要ない行為=無意味な行為」と映るからです。しかし、それが「必要ない」のは、多くの、人工音が気にならない人にとってです。中島さんにとっては、この行為は真剣そのものの行為です。そして、「なぜ自分だけが、このような苦労をしなければならないのか」と理不尽な思いを抱きながら、日々、「耐えられない」環境の中、ガマンしながら、暮らしているのです。
さて、中島さんは、現代の日本の社会では、(人工音という側面に関しては)「マイノリティ」です。そして、「マイノリティ」とは、まさにこのように、日々、耐えがたい世界の中でガマンしながら、いや、ガマンさせられながら暮らしている人々のことだ、と言っていいでしょう。ところが、マジョリディは、ガマンする必要なく暮らしている人々のことです。だから彼らは、マイノリティが「ガマンしている」ということが理解できない、いや、しようとしないのです。それどころか、ガマンにガマンを重ねたマイノリティが、「耐えかねて」必死の思いで声を上げると、眉をひそめて、「そんなことがまんできるだろう、なんてガマンの足りないやつらなんだ」「じゃあ日本から出て行けばいいじゃないか」などと言うのです。*2
ところで、マジョリティの彼らは、一方では、当然のことのようにこんなことを言うのです。「ホームレスのニオイっていうのはな、本当にガマンができないほどひどいんだ。おまえはかいだことないんだろう?」などと。そして「おれたちにはホームレスのニオイはがまんできないが、ホームレスは図書館に入るのをがまんしろ。そんなの簡単なことだろう」と。
ではおまえは、逆に、マイノリティの意見をすべて通して、マジョリティはつねにガマンしろ、というのか、などというひともいるかもしれませんが、そういうことではありません(「マジョリティの意見をすべて通して、マイノリティはつねにガマンしろ」という状態をつくっておいて、よくそんなことが言えるな、とは思いますが)。
さきほど、「私はあなたではない」という当たり前の事実の話をしましたが、すくなくともタテマエ上、「民主的社会」とやらいうものは、お互い「私はあなたではない」という事実を前提とした上で、話し合って折衷案をみつけだすことによって作られることになっているわけででしょう? ところが、マイノリティというのは、一方的にガマンを強いられているばかりではなく、「話し合い」なるものがあってもどういうわけか決して呼ばれないのです。いや、「呼ばなくてもいい人たち」と勝手に前提されているのです。中島さんが声をあげても、いつも「スルー」されてしまいます。そして、ホームレスが図書館にいると、マジョリティの人々は、そのホームレスに目をあわそうともせずに、「あのホームレスどうにかならないかな」などという「話し合い?」をマジョリティどうしてはじめるのです。

うるさい日本の私 (新潮文庫)

うるさい日本の私 (新潮文庫)

追記

今、本棚で中島さんの『〈対話〉のない社会──思いやりと優しさが圧殺するもの』を発見しました。そんなヒマはまったくないにもかかわらずついぱらぱらと読み直して見たところ、以前読んだときより非常におもしろくかんじました。
しかし、上の記事に関することで、この本で氏自身が「マジョリティとマイノリティ」という言葉を使っていて、しかもその意味は、上の私の記事におけるのとはだいぶちがっていることが分かりました。というわけでやっぱりうろおぼえで書いてしまったのはちょっとまずかったのですが、とりあえず関連するかしょを引用します。

マジョリティとマイノリティ
マイノリティを徹底的に排斥しながら、その暴力にいっこうに気づかず「空気」に擁護されて自分たちの「正義」を確信している鈍感にもおめでたい人々(マジョリティ)のみが状況功利主義者なのではない。状況功利主義の蔓延する空間では、じつはマイノリティすなわちいつもオモテではシブシブ賛成し、ウラに回ると決定に難癖をつける弱く善良な人々もその力学に支配されているのだ。彼らもまた「様子を見る」ほうが「得」だと悟って、不平不満を露骨に言うことを控え、言葉を選び、反感をかわない動き方をするのだ。こうした社会では弱者であればあるほど「語らない」ことを選ぶのであり、対立を、〈対話〉を避けるのである。そのほうが「得」だということを彼らは早い時期に全身で学んだからである。
ここでちょっと確認しておこう。私はマイノリティを──身体障害者被差別部落出身者・在日朝鮮人・同性愛者等々狭義の社会的弱者という意味ではなく──さまざまな意味で社会的に報われていないのであるが、個人の言葉を抑制し小心翼々と社会に適応しているフツーの「善良な市民」の意味で使用する。したがって、これと対立するマジョリティとは、個人の言葉を意図的に(ズル賢く)控えて社会的利益を受けているフルーの「善良な市民」のことである。
わかりやすい例で言えば、いつもいつも「常勤」を渇望してうめき声をあげている大学の非常勤講師はマイノリティであり、犯罪行為さえしなければ六十五歳まで遊んでいても首を切られることのない大学教授はマジョリティである。つまり、個人の言葉を発して身を挺して戦っている一握りの人々意外は、みんなマイノリティかマジョリティというわけである。(p.175-6)

この定義によれば、中島さんは、決して「マイノリティ」ではない、ということになりますね。

*1:ヘッドホンの音はいいのか、とかつっこみがありそうですが、繰り返しますがこれは私のうろ覚えの紹介なので、詳しくは中島さんの本を見てみてください。説明があったように思います。

*2:ちなみに私も、街中の人工的な音はぜんぜん平気なので、マジョリティのがわであり、中島さんのガマンできないという感覚そのもはわかりません。しかし、中島さんのいらだちそのものは、「わかる」ようなきがします。ところで、ねんのため、ほかの部分で氏の意見にすべて賛同しているわけでもありませんし、実はそれほど中島さんの本は読んでいません。